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  宵待ちビビのいろはにお江戸*覚書 →人情掲示板でのお江戸あれこれ 
★放送を見ながら、気になったことをつらつら書いていきますが、多少、前後します。 ご了承くださいね。
第4回『「そんなことまでしてたのかい・・」』
by ビビッドカラー

【春でおぼろの一石橋さ byおふさ】
【信濃の善光寺参り】 
【五十の倍は大昔から百です!by おかねさん】
 
【おまけ・《第4回》人情いろは歌留多】

ふふふ、風祭ゆきさん(おまきと栄蔵のおっかさん)の台詞、こいつにも吹いてしまった…。 2組の親子、いや十六屋のだんなさんとご隠居のふたりもあるから、3組か…。千差万別いろいろあるもんだなぁ、しみじみ〜。

【春でおぼろの一石橋さ byおふさ】
 橋の対岸に屋敷を構えていた、金座の後藤家と呉服商人の後藤家から、「ごと(五斗)+ごと(五斗)」で「一石」ってシャレで名付けたってホントかなぁ?

東京の地名の由来
http://www3.justnet.ne.jp/~tamio-enomoto/index1/name.html

《迷ひ子のしるべ》  江戸時代の後半、一石橋から日本橋にかけて大変な盛り場だったそうで、迷子が多く出たため、安政4年(1857)に「迷い子の道しるべ」が南詰に建立され、現在も残っている。ワープステーションでは転がっていたそうだ(笑…「ひとくちコラム第4回」を参照してくださいませ、みずはさん、ありがとう〜!!!)。  柱の両サイドに張り紙用のくぼみがあり、向かって右側=<志らする方>が「迷子を預っています」といった告知用、左側=<たつぬる方>は「青い絣の3歳くらいの男の子を見つけた方はご連絡ください」みたいな、尋ね人をする側の告知を掲出するしくみになっていた。(昭和17年に東京都の史跡に指定され、現在は東京都指定有形文化財となっている…とあるので、おそらく、当分は、この地に残されると思はれる。)

 ちなみに、ほんとうに、迷子が多かったらしいこの時代。迷子防止に、「木札」に名前や住所などを記した「迷子札」を首からぶら下げていたようだが、本当に「迷ひ子」になってしまって両親と会えない子供は、その見つかった町内にて、町入用(ちょうにゅうよう)という町内経費によって面倒を見る、または親御さんが見つかるまで養育するということになっていた。町ぐるみで育て、寺で預かったり、町の有力者が実子のように自分の家に入れて養育したりと、決して迷子だからということで、たらい回しにはしたりはしなかった。また、そんなことをしてしまうと、町の恥になると考えていたらしい。 きちんと寺子屋(←これは、もっぱら大阪など上方で呼ばれた表現。江戸では、手習いと称した)にも通わしたり、希望すれば、お稽古事にも習わせた場合もある。

《ついでのついで》 「春でおぼろ(で)」とくれば、「御縁日」と続く『日本橋』(泉鏡花 作)の一節に出てくる名文句、・・いや、歌舞伎の台詞などと同様に、「風流を好む通人が」さらりと言ってみせたりする言葉の類。何のことはない、かくいう私も自分の誕生日が「泉鏡花」の命日にあたるという超個人的な理由で知っていただけのことだったりする…。^_^;。学校の授業とかじゃやらないし…。
 ただ、「一石橋」が重要なファクターとなる日本橋の芸者と医学生との悲恋の小説なので、これを偶然と片付けるのも少々気がひける…。「春で朧の…」にしていたあたり、確信犯的に言わせた台詞とも思えるし、そうなると、明治の小説の文句が出てくるのは時代的におかしい、とか、「てにをは」にあ〜だこ〜だ言ったりするのは、はなから無粋だし…(笑)。さて、真偽のほどはどうでしょう…。

こういう風流を表す言葉は、現在だと和歌を詠むときのお約束、季語として扱われることが多い。
霧(きり)…秋。地表付近にできた雲。見通せる距離は約1km。
霞(かすみ)…春。寒気の弱い寒冷前線が南下するとき、その上に暖かい気流が南の方から流れ込んで発生する霧のこと。  
朧(おぼろ)…夜の霞。気象状況だけでなく、ぼんやりした状態を表すニュアンスに富んだ表現としても使われる。<朧月夜><風朧><草朧>  
靄(もや)…霧よりも濃い状態。

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【信濃の善光寺参り】
善光寺(長野県長野市元善町)は、
・ 男女を分かたず、
・ 昼夜を問わず、
・ 特定の宗派を持たず、宗派を超えて開放
信者を受け入れて庶民の心の拠り所となった場所で、江戸時代から「お伊勢参り」と「善光寺参り」は庶民の憧れだった。「一生に一度は行きたい」と、仲間内でお金を貯めて、籤(くじ)をひいて代表者が参るという「善光寺講」という形でいく場合があったり、ドラマで出てきたように、近所の者同士で旅だったり…(原作でも旅籠仲間の「講」の仲間に誘われた、となっている。)庶民に許された特別な旅行といった赴きがある。

善光寺公式サイト http://www.zenkoji.or.jp/

百太郎さんだけが運悪く…という雰囲気だったが、実際はかなりの規模の大地震だったようだ。

《善光寺大地震》
一八四七年五月八日(江戸時代)〈M七・四〉
『善光寺地震』信濃北部…死者約一万三千人、うち善光寺参詣者の死者七千人前後。
〜報恩社 地湧選集 690号

正面の階段を上がり、外陣に入る手前から左側を見ると角(かど)に「鐘」がぶら下がっている。その「鐘」と向き合う柱に注目してみよう。わずかに「へこみ」があるのに気が付くはずだ。この「へこみ」、実は江戸時代末期に起きた「善光寺大地震」の揺れで、ぶら下がっていた「鐘」が外れ、落下する時に柱に当たった跡なのである。

http://www.asahi-net.or.jp/~mi5h-skri/nagano/date/n_nagano/nagano/town/zenkouji_road/zenkouji_road_2.html

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【五十の倍は大昔から百です!by おかねさん】
板橋宿までの往復 100文は、高いのか、安いのか。
現在の価値と置き換えるのは、至難のわざなので、あくまでも参考資料から推定していくしかない…ということを覚書(3)のときにも書いたので…そちらも参考にしてください。
※ 換算する基準が変動する米相場であること、商品価値・貨幣・労働に関する価値基準が現代とは大きく違う点などをあわせ、解釈や計算方法が歴史家によって異なることがあげられる。

幕末の貨幣価値
http://www.kisc.meiji.ac.jp/~wonomasa/kahei.htm

安政年間(1854〜1859)…米1石/銀130匁・(7合/銭100文)
            味噌1貫/銀2.5匁・(4匁/銭100文)
            酒1升/銭400文・(2.5合/銭100文)
江戸の諸物価
http://www.ag.wakwak.com/~toshkish/kakei03/kakei03.html

少し、時代は前に戻るが、嘉永六年(1853)ころ、 芝エビのてんぷら蕎麦・・・32文/上等の酒1合・・・40文。
同じ100文で買える米の量が享保18年(1733年)に1升3合だったものが、安政年間では7合、約10年後の慶応3年(1867年)には1合勺と、随分少なくなり、物価急騰ぶりがうかがえる。
さて、こうしてみてみると、百文の価値…を日本橋⇔板橋の距離で考えると微妙。定飛脚問屋が御符内の配達をあれほどいやがるところを見ると、たしかに利の出る商売とは言いがたいかも。

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引用した資料
江戸東京博物館展示資料
江東区深川江戸資料館展示資料
日本銀行 貨幣博物館展示資料
小野武雄著 「江戸物価事典」多摩郷土文庫

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【ホントの余談】
前回の、モロ諸岡さん(光畑任三郎)、松重豊さん(木津屋八兵衛)、そして風祭ゆき(おまきと栄蔵のおっかさん)さん、水野久美さん(百太郎のおっかさん)、毎回、なんか気になる人やら、懐かしい人がたくさん出てくるなぁ…。いや、これはドラマサイトのコラムぢゃないので懐かし話は控えます(笑)。
あ、このくらいならいいかな?おまきちゃん(尾野真千子さん)は、コムスシフト(小澤さんと同じ事務所)の女優さんだったのね。

【おまけ】
《第4回》人情いろは歌留多

つ:ついに見つかり 勝鬨の 家中のものに 追われたり 
ね:熱もこもるゼ 頬も腫れるゼ ここでもやっぱり びんたかよ
な:長唄を習うおきゃんな町娘
ら:埒(らち)を破って進言しても 時間切れだよ 戸をぴしゃり(今週の五郎八)
む:無意識に 懐(ふところ)にしたリンドウの 花の乾きに 老母涙す

※ 勝鬨彦太郎「殿」ではなく、「様」と呼んでいたので、家中(かちゅう)としてみましたが…別に家中とはかぎりません(笑)
単なる御家人仲間かもしれません。細かいことはゆるしてくだされ(m(__)m…ビビえもん)。