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どうでもいいことだけれど〜♪
竹庵先生、ミアファルくんの桶の水、替えてやってくれ〜!(笑) 桶中で揺らぐ○○が気になります!
せまいところで飼ってるときは、とくにね…って見るたびに思ってたんだけど、ま、元気で生きてりゃいいってことかいなぁ。
【不思議空間「人情:新吉原」】
さて、今回の舞台は、「吉原」。
川向こうに、紅蓮の色里がぼ〜っと浮かび上がっていた景色、作り物感が余計「あの街のあだ花な雰囲気」を伝えているようで、実は今回、一番気に入ったシーン…(^^ゞ。
中秋の名月かどうかはわからないけど、虫の声に、すすきもゆれてたし…。
殿方の大好きな場所だったために、けっこう、いろんな資料が残ってること、残ってること。どうせなら、もっと、他のことにも気を配って残しておいてほしかったっていう歴史家さんたち、たくさんいるはず。
懐に 細見忍ばせ 子ら抱え ふと見りゃ女房 行李(こうり)かつぎぬ
火事のさなかに、「吉原細見(遊客必携のガイドブック)」だけは後生大事に持ち出して、命からがら逃げたから…おおかた、そんなことじゃないかと疑いたくなるくらい。おかげで、興味とその気さえあれば、かなりの吉原通になれそうだけど、それはそれで嬉しいような、悲しいような…。
吉原細見の利用法:http://www.jti.co.jp/Culture/museum/eventSep02/yosiwara_5.html
吉原再見:http://www3.airnet.ne.jp/asoh/
●台の物=仕出しの料理 五郎八は興奮して「すげぇだろ、すげぇだろ」と連呼していたが、やっぱり鯛(たい)の尾頭の塩焼きは「めでたい」料理というか、ご馳走の代表選手だったんだ、と妙に納得!朱塗りの島台、楕円飾りぶち付きの膳に料理が並んでいたが、郭での宴席の料理は、ほとんどあのスタイル。郭では酒の用意はしているが、料理は作らなかった。料理は出前を使い、そういった仕出屋を"台屋"と呼び、そこから来る料理は"台の物"と言った。台屋は魚屋、和食屋、洋食屋、鰻屋、寿司屋、蕎麦屋、天麩羅屋など今と同じように色々あったが、汁粉屋、和菓子屋などもあり、これらはお客が女性に差入れのため注文していた。
●おのぶさんのほうがよっぽど、玄人さんみたいだったよ 一般の素人女性は大門(おおもん)をくぐれるのか…。雁屋のおのぶさんも、しっかり吉原の御座敷にいたけれど、あまり見かける光景じゃないとはいえ、絶対禁止ではなかったらしい。もちろん、ふら〜っと行ってもダメ!一般の女の場合は、利用する茶屋の発行する切手(許可証)がなければ大門をくぐることはできなかった…とある。そりゃ、誰かの手引きで、普通の町娘風に着替えた遊女が足抜けされても困るし…、(初期の頃は、ほとんど一般女性の出入りは禁止だったらしいが、時代が下るごとにだんだん緩和され、「花見」や「紋日」(いまでいう祝日)など決められた開放日というのがあり、「興味津々」な女性たちが多く見学に訪れたという。やっぱり、みんな興味あるんだよね。
羽振りのいい「雁屋ご一行さま」は、それこそお得意だったことだろうし、「座敷客」ということで、すんなり許可がでたのかもしれないが…ははは、ただもんじゃないね、おのぶさん。あの貫禄と性格ならじゅうぶん「遣り手婆」もやれそうだ(笑)
遣り手:二階、すなわち遊女の部屋をしきる女性。楼主の代理として遊女たちを管理・監督する女性。元遊女が多い。郭では、三十路を越えたら、「婆」扱いなので、本当に「婆」である必要はありません。強欲で人情味なく、女郎の刑罰の執行をするなど、廓中の憎まれ者である。『意地悪婆さん』の代名詞のように言われている。ね?ぴったしでしょ?
ちなみに、遊女が大門を出るためには抱え主から許可をもらい、通行を認めた切手を所持する必要があった。が、まず、そんなことはしなかったんじゃないかな…。地方から女衒(ぜげん)に連れられてきた、借金の証文でがんじがらめの遊女には郭以外に行く宛もなかっただろうし。しかし、花見の時期は特別に許可がおりたあたり、「江戸っ子」の尺度というか、判断の基準が垣間見えておもしろい。「年に一度の花見じゃないか」が、制度よりも何よりも優先してしまうのだろう。もちろん、見世(楼)ごとの外出許可だったらしいから、そのあと、自由行動(風花ちゃんと冬吉さんのように、デートとか)ができたかどうかは…??
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