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勝鬨彦太郎様はご無事に、お役目を果たされ、とうとう「丘の上の王子様」になられたとか、なられなかったとか、風の噂で聞き及びましたが・・・(涙)。
すみません。最後まで江戸情緒で通すつもりでいるんですが、雲行きがあやしくなってまいりました。
「六地蔵の辻」の桜の木の下にも「怖〜いもの」が潜んでるかもしれません。(by 梶井基次郎『桜の木の下には』昼間とはいえ、「待ち合わせ」には十分気をつけてください。
【失意のまどか 弟発見!】
●盛り場でウロウロ
矢場の呼び込み男に、「(彦次郎だろ?)いるよ」としぶ〜く言ってほしかった(←すみません。高視聴率ドラマ「Hero」に出てきたマスター(田中要次氏)だったので、ついつい。ドラマサイト巡りばかりしている弊害です。)
ちょっとかたいけど、弟役のひと(遠藤雅さん)、よかった。似顔絵に特徴をもたせるためとは言え、あのほくろはちょっと・・・・違和感あったかな。ついつい目がいってしまって、芝居に集中できずに、かえって申し訳ないような気持ちです。(食傷新道や矢場に関しては、「掲示板であれこれ8 Q36」にあります)
●町人師匠
彦次郎が寺子屋(江戸の町では手習いと称していた・・・既出)で子供たちに教える仕事についたというのは、身分を明かせない身であること、浪人でも可能な仕事ということ、資格が問われることがないことなどからすると、日銭が稼げる仕事だったのだろうと容易に想像がつく。既存の寺子屋で、いまでいうアルバイト教員的な扱いであればなおいい。
あれだけ、交流(?)があった、雁屋と十六屋の間柄で、『灯台下暗し』ってわけにはいかないだろう。(あまり、原作のネタバレばかりするのもなんなので、詳しく書くのはやめますね・・・・興味のある方はお買い求めください)
なにしろ、江戸時代の日本において、江戸は、庶民の就学率・識字率共に世界最高水準に達していたとあるが、どうも本当らしい。
。
←江戸初期の農村部ごろから、すでに、支配者に年貢をごまかされないために文字を学んだ土地もあるという。手習い師匠の場合、さまざまな身分・職業の人がいたため、同業組合のような組織は無かった。庶民の教育に関し、お上はほとんどノータッチで、民間主導・相互扶助意識で運営されていた。そんなわけで、裏長屋の子供でも手習いへ行かない子供は男女ともほとんどいなかったようだ。
授業内容は、俗に言う『読み・書き・そろばん』だが、入る時期も自由。進み具合も自由。年長のものが面倒をみるのが当たりまえ。手習草紙は、同じ紙の上に少しづつずらしながら何度も書くので真っ黒になる。それでも、新しく書いたところは墨が塗れて光るので自分の書いた字は確認できたというし、また五日おきくらいに、その間練習した文字を新しい半紙の清書草紙に清書させるのが普通であったという。エコロジーな思想が徹底していたようだ。(石川英輔 大江戸仙花暦)
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【辻占い】
当たるも八卦、当たらぬも八卦(笑)。科学が未発達で情報収集の手段にも乏しかった昔は、将来を案じて占いや願掛けに頼ることも多かった。宗教儀式には占いは欠かせない。吉か凶かを占い、ケガレがみえると悪霊祓いを行うのが通例で、キヨメの人たちが、庶民の生活と密着した「辻占」として、現代につながる占いへと発展させてきた。
庶民対象に「周易」や手相、筮竹(ぜいちく)を使って占う八卦見(はっけみ)、天眼鏡を使う人相見、占いの言葉を書いた紙片を売る辻占売り(つじうらうり)などが流行った。庶民を対象とする者には、国家予算をかけて蓄積された「占い」の資料を見ることも勉強することも出来なかった。
実際、五郎八やおくみが見てもらっていたような、現代の我々がいう「占い」=「星座占い」「今日の運勢」「今週の運勢」「・・・の恋占い」と言われるものが庶民に浸透したのはかなり時代を経てからのこと。
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【えいえいおーは、「詠、詠、応」なのか?】
●勝鬨(かちどき)の謎
「勝鬨」戦いや競技に勝った時にあげる鬨(とき)の声。凱歌(がいか)。「―をあげる」
「討ち取ったり〜、討ち取ったり〜」「ぅお〜」「えいえいおー」
武士の守護すると言われる軍神「摩利支尊天(まりしそんてん=中国・宗の時代の神)」の幼名が「えいえいおう」だったからという説もある。
●いっそ、一思いに…
出陣首役を暗示させるような儀式、等を探していたのだが、なかなか信憑性のある文献の記述などが見つからず、非常に残念。歴史的裏打ちよりも、ドラマ的な扱いに興味を移してみると、「ひとがた(見立て)」でいくか、「人柱(人身御供)」でいくか…の二者択一ではないのかなぁと思っていた。つまり、名誉なお役目という枷(かせ)があるので、厄災扱いはできないのだが、身代わりのなにかを見立てて、それをバッサリ。あるいは、城や橋などの築城・建立の際、工事の完成を祈り、神々の心を和らげるために、犠牲として人を水底や地中に生き埋めにするという考え方に乗っ取り、武運と士気向上という名目のもと、実際に逝っていただく。
実際は、ご覧のような展開だった。
目をつぶった姿を焼き付けよう。
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【最後の挨拶】
一人一人と別れの言葉を交わす、お忍び若様こと(嘘です。)「勝鬨彦太郎」。
下々(しもじも)の者に、そんなにお言葉をかけてはなりませぬ、という側用人がついてこなくて良かった・・・。最終回だ。出番と台詞を確保したいレギュラー陣にとって、あのシーンは欠かせない。。。
そんな重いシーン(!)のなかで、え〜?嘉助さんの初恋の人がおしげさんだったなんて・・・とツマランことにひっかかってみる。そりゃたしかに役者の実年齢でいえば、そのほうが自然かもしれないが、役柄としては年齢的に無理がないっすか?おしげ恋しさに婚期を逸したのか嘉助よ、すると、おくみは随分年がいってから出来た子供なのか・・・。若かりし頃のおしげはさぞ、きれいだったことだろうねぇ。嘉助にとっては年上の憧れの人だったのか・・・。だから、あの姑根性丸出しのおしげにバシっと強く言えなかったのか。いや、そうなると、おふさ茂衛門夫婦はいくつの設定だったのか・・・。考えると人間関係が根底からひっくり返りそうだ。
明治の世にうつったあとの登場人物のその後・・・、劇中のエピソードや人物の性格設定などと微妙にからんで、さもありなん・・・な感じがユニークといえばユニークなのだが・・・。
●彰義隊 しょうぎたい しやうぎ― (彰義隊)
今から130年前、1868年(慶応4年)、徳川慶喜側近の旧幕臣を中心として結成した有志隊。。徳川慶喜の助命のために一ツ橋の家臣が中心となり、その後幕臣などが参加して、慶喜護衛・江戸警備の名目で上野の寛永寺に立てこもった。いわゆる彰義隊上野戦争の勃発である。しかしながら、大村益次郎指揮の官軍によってわずか半日で壊滅。
幕末の時代設定ではあったが、このドラマそのものは、殺伐とした世情を主な背景としてはいないため、意識することが少なかった分、通常の暮らし面での江戸について、興味のつくまま、調べ物をしてみた。けっして、時代考証の矛盾を書きたかったわけではないので、大甘になってます。書きたかったけれど、資料が見つからず(努力不足な面も多々あり・・・)、納得のいってない部分もあるのが心残り。もともとドラマが好きだったが、けっこう『時代劇というジャンルそのもの』が好きで見ていた自分にあらためて驚いたりしている。そんなこんなで、今回のラストは「肩のこらない時代劇」続編の可能性をたたれたようで、ちょっと複雑な思いもする。
一応、これでおしまいにしないと、延々と続きそうなので・・・完!
とっても、楽しいひとときと機会をありがとうございました。
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引用した資料
大江戸ものしり図鑑(主婦と生活社)
江戸から東京へ−町人文化と庶民文化−東京 筑摩書房
江戸東京歳時記(歴史文化ライブラリー)
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【おまけ】
《第8回》人情いろは歌留多
ゑ:エンディング これじゃ続編 予定無し?
ひ:人探し 終えて 新たな道をゆく
も:武士(もののふ)町方 市井の暮らし 江戸の余韻に 浸りつつ
せ:説明口調でカタをつけても 拍子抜けする果し合い
す:「好きだよ」と 自然に言われただけなのに 怒鳴りたいのね?「おいらもだ〜」
京:京でなくても 火は絶やさずに 見続けていたい 時代劇
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