『この佇まいを愛でましょう!(メロメロ)』 by と
初回見た印象はとにかく『原田芳雄カッコイイわ〜!』、10年も前にウロウロと通っていた街のリアルさがただ懐かしく、青臭かった自分の過去をむずがゆく思い出し、とそちらにばかり目が行っていた…ゆえにか!?小澤征悦のことはこれっぽっちも憶えていなかった…若い頃の石原裕次郎に似てるなあ、と思ったことはかろうじて思い出したが、ラストシーンで水を浴びて恍惚とするあたりなど、まったく別の役者に見えていたかもしれない。う〜む、先見の明、まるでなし。そこで大慌てで見返した。…イイ!この小澤氏はイイわ(遅)。
■ぬるい水がキモチよくすべてを許す
「東京マリーゴールド」で非常に辛かった東京日常流し撮り、がこういうテンポだと大丈夫なのは何故だろう…ぎゅうぎゅう詰め込まれたネタのおかげなのか…とにかく油断していると、誰かしら際立った役者を画面のどこかしらに見つけ、目をやってしまう。役者ってすごい。
ともかく、シモキタの居心地よさが存分にわかる(爆)。何者にでもそれなりの居場所があり、溜まっていられる。そのへんはもう、フジ子・ヘミングなぞに語られたらイチコロである。フジ子おばさんの部屋を見ていると実に、森茉莉を思い出してしまうのだが、彼女が描く嫩い男、おそらく外見のタイプはかなり違うが、「眼が紫(菫色)の光を発するような」青年、小澤君どうですかねぇ〜、ダメですか(笑)。やっぱり武田真治ですか(笑)。
主人公のユキがつけている10年日記という小道具で語られるとおり、きっとシモキタの10年間はあまり劇的な変化もなく、平たんな感情を保って暮らせそうである。昨日と同じ今日、去年の今日と今年の今日と3年後の今日は、きっと同じように過ぎていく。
■蚊取り線香2巻き
九四郎という芯に近くなった蚊取線香と、まだまだ燃えながら巻取っていかなきゃならないタツヤ、このふたりの対比がおもしろい。対比といっても、澱み滞るふたりは同類の世代違いなだけである。今のままただ時が過ぎれば、おそらく20年後には、タツヤが全く同じことを同じカフェで思うはずだ。自分の過ごして来た時間について、考えてしまうはずだ。そして、若い奴が簡単に開けるビンの蓋に苛々と落ち込み、名馬のレースの蘊蓄を語るおっさんになる。
タツヤもどこかでそれに気がついている。心地よくぬくぬく暮らす仲間の中で、タツヤも九四郎もどこか悶々としている。なにか風穴を開けたい気持ちはあるんである。そしてシモキタの化身のような九四郎が「役者やめちゃおうかな」などと呟いてみたり、昔の女に会う気になっちゃったりするんである。
このシモキタ印の蚊取線香の輪廻は、果たして断ち切られるのだろうか。。。風邪で情けなく転がるタツヤは間の悪いことに女をふたり同時に失い、看病する人もなく熱が去るのをただじっと待つ。日々の鬱屈の末ズブ濡れで恍惚としてたタツヤは、何かキッカケを得たのだろうか?好転を暗示するような表情だったが、たとえまたタツヤがシモキタに紛れ、辺りを睥睨しながら雑踏に消えても、驚きもがっかりもしないんだよなぁ。きっと。
■まだなにものでもない嫩い男!
まあともかく、小澤氏の佇まいときたら絶品である。日常に倦んだイマドキ青年は女性にだらしないし仕事辞めちゃうしその日暮らしで競馬好きパチンコ好き、アングラ文化の地の底辺で、ただただ無為に過ごしているが、そんな日々の中、時折ギラっとまわりを睨んではシモキタを徘徊している。九四郎が言う「遭難しかかった山で瀬音を辿り、命からがら降りてきて居着いている」若者のひとり。きっと、写真で食うなんて夢のようなことだと吐き捨てるように思いながら、でも望みを捨てられずに自意識を持て余して悶々としているのだなぁ。まだ何者にもなれない、何者でもないただ嫩い男。
頽廃というほど美的でもない(失礼)、というかそもそも唯美的なツクリの世界ではないし、反骨精神!というほどのアンチテーゼを唱える対象すら持たない、実にイマドキ系、尻上がりに言い放つ投げやりな若者言葉の語尾に、定義不能の若い苛々がいちいち絡んでいる。
年上の女にメシを食わせてもらい、妙に明るい、居直った律儀さで礼を言うと、路上で煙草を1本抜き取って火を点け雑踏に紛れ込む。その尖った肩の後ろ姿よ!品のある男が崩れた役を演じると、実に色気が出てよろしい。もう一段ワルい男も見てみたい。
■破裂し降り注ぎ浄化する?
大?捕り物の最後には水道管(?)が破裂し、噴水のように街の人々に降り注ぐ。恍惚とする発熱中のタツヤ君…皆、避けることなく濡れている。むしろ祝祭のように水を受けている。この水によって、何かが流されたのだろうか。浄化されたのだろうか。おそらく、タツヤや九四郎やユキといった、日常になにがしかのとげが刺さった者には、それをはっきりと意識させるような、流れになるのだろうな。
ひとしきり濡れた後カメラはぐっと引き、東京の夜景にいかにもチッポケな噴水が上がってる遠景を捉える。高揚してガハガハと浴びていた水は、実にこんなささやかなもんなのだ。その所詮こんなもの、というささやかさは、猛スピードの東京の中で窪地のようなシモキタという街自体の比喩なのか、それとも頑固に繰り返されるであろう閉息した日常を強調するものなのか。
ともかくカタストロフィは突然に、地底から敷石を持ち上げてまこと物質的にもたらされ、物語はその後ユキの旅立ちへと続く。一方、やはりシモキタをぬくぬくと離れないこの映画の語り手、ユキの弟は、あれしきのちっぽけな水ではなんということもない、相変わらずのシモキタの日常を背負って、街に溶けていくのである。いつだって紛れることができる。存在意義を問い質されない、実に安寧な心地よさ… |